ここでは、鬼滅の刃 上弦の陸・妓夫太郎と堕姫(梅)の悲しい過去を掘り下げてみました。
妓夫太郎と堕姫(梅)の二人は遊郭内の羅生門河岸で生まれ、実の母に生まれる前にも、生まれてからも何度も殺されそうになっています。
これは、人はすでに鬼もどきだというメッセージなのでは無いでしょうか?
[st-mybox title=”羅生門河岸とは” fontawesome=”fa-check-circle” color=”#FFD54F” bordercolor=”#FFD54F” bgcolor=”#FFFDE7″ borderwidth=”2″ borderradius=”5″ titleweight=”bold” fontsize=”” myclass=”st-mybox-class” margin=”25px 0 25px 0″]
吉原遊郭の敷地内にある切見世とい長屋で商売を営む一角。
働くものは、切見世女郎と言われ、吉原遊郭内の最下層の存在。
病を患った者、歳を撮った者など、不人気の女郎が回される地域。
[/st-mybox]
妓夫太郎と梅の母はそんな羅生門河岸の切見世女郎だった。
妊娠中の女郎は客もとれず、ましてや梅毒にかかっていたため、ひときわ貧しい生活だったのだろうと思う。
また、妓夫太郎は母の梅毒に感染して生まれたため、身体は枯れ木のようにやせ細りあちこちに痣があった。
美しさが判断基準である遊郭内で、妓夫太郎の居場所はなかった。
歩いているだけで、石を投げられている。
Contents
妓夫太郎は、生まれたときから「餓鬼」だった
妓夫太郎は人に絶望していた。
人は、善人そうな顔をして、まだ弱く抵抗できない子供に対し鬼のような仕打ちを与えている。
食べ物もあたえず、殺されそうになり、周囲からは石を投げつけられている。
こうして妓夫太郎は、母を含め周囲のものに「餓鬼」にされていた。
子供には親も生まれる環境も選ぶことができない
そんな理不尽を感じながら育った行太郎の幼少時代。
そして堕姫(梅)が生まれ、母が死に、妓夫太郎は妹に、自分が感じた理不尽を美しく生まれた妹に感じさせたくなかったのだろう。
奪われる前に、奪えと教えている。
その結果、大事にしていた妹は、侍に生きたまま焼かれ、妓夫太郎も斬られている。
これら妓夫太郎が人から受けてきたことは、鬼舞辻無慘のパワハラとどこが違うのだろうか?
いや違いなどない。
鬼は理不尽に人を喰うが、日の光の下に出ることができない。
しかし、人は自分より弱いものに対し、鬼の仕業と思えるようなことを平気で行う。
妓夫太郎は、最後の最後まで理不尽を感じていた
妓夫太郎は生まれ変わっても俺はまた鬼になると言っている。
これは、人間は変わらない上に、弱いものに対しては、鬼よりもひどいことを平気でするというメッセージでは無いだろうか?
死の間際、妓夫太郎は素直で染まりやすく、美しく生まれた
梅が、違う環境に生まれていればと思いを巡らせる。
「たられば」なのだが…。
人はこうして鬼になるということが描かれたのでは無いかと思っている。
こんな絶望の中で、妓夫太郎は自分が地獄に行くが、梅お前は明るい方に行けと言ったが、梅は「絶対にお兄ちゃんから離れない」と言い共に地獄に向かった。
兄妹の絆
生まれたときか親からも周囲からも餓鬼として扱われた兄と妹。
その結果、美しさと、貧富の差が絶対の歪んだ環境に育った。
唯一、上弦関係に抗う方法は暴力だった。
その結果、鬼に落ちた兄と妹。
一方、姿が鬼になっても人を守る妹と、鬼に落ちた者に対しても優しさを示す兄。
真逆のようでも、本人たちにはどうすることも出来ない。理不尽な環境で生い立ちは変わったが。
それでも、兄妹の絆には、差がなかった。
妹は兄を慕い。兄は妹を身体張って守った。
そんな、考えさせるエピソードです。
コメント